| なんだこれは?(またですか...) |
| その通り。「何だこれは?」である。(玉江さんに聞いたところ、これが「原本」なのだそうだ!) 「これは、子供の工作か?」 罫線はいたるところでずれている。数字の桁もずれている。(他の資料とつき合わせて詳細に見ると判明するのだが、引き落とし等の振替口座もマチマチなのである。) 次のような質問をしてみよう。「どうやったらこのような印字出力が可能なのですか?」あるいは、「新北九州信用金庫さんは、どちらのメーカのコンピュータとプリンタをご使用になられているのですか?」(おっと、後の質問は失言だ。「弊社は、そのような欠陥品を販売してはおりせん!」。名前を出されたコンピュータ・メーカからクレームがついてしまう。) この書類が、コンピュータによる計算処理の出力結果でないことぐらい、誰の目にも明らかだ。20を超える支店を有する信用金庫が何千人といる顧客の証書貸付元帳を人手によって処理するわけが無い。それでいて、部分部分は、コンピュータの出力なのである!(人手によって処理するのならば、書き込む数字も人手で記入するはずだ。) やはり、「子供の工作」という表現が適切だろう。それと同時に、金銭を扱う銀行業務や会計業務の帳票としては、不適切なものである。会計監査人、システム監査人がこの書類をみたら、間違いなく文書の改ざんを疑うはずである。なぜなら、これらの書類は、通常(計算機が正常に稼動している限りにおいて)、人の意思や恣意性とは無関係に機械的にハジキ出されるべきものだからである。 期待されるものは、奇麗に印刷され人為的加工の痕の無い元帳である。しかも、元帳は月々の管理に不可欠な書類である。いつでも、望むときに、コマンド一つ、アイコンクリック一つで、出力できるはずではないのか?しかし、私達が、目にしている出力帳票は、何人もの工作員が糊とハサミで作り上げた「オーダメイドの」ゴミなのである。 与えられている出力結果は、適正な証書貸付契約の手順を踏み、金融業務の監査基準にのっとって適切に処理されたものではない。適正な証書貸付元帳と異なる書類が、証書貸付元帳として裁判上の証拠として提出されたということは、本来的な証書貸付元帳が存在しないということである。(存在するならば、その適正な元帳を証拠として提出するはずだからである。もっとも、適正な元帳は、ちゃんと存在するものの、それは人に見られては困る元帳なのかもしれない。しかし、私達は、そのような元帳を適正な元帳とは言わない。) |
| 矛盾が導き出された | |
| かくして、私達は、「貸付が存在するにもかかわらず、その貸付を適正に処理した処理結果が存在しない。」という矛盾を導き出すことに成功した。 この矛盾は、仮定が誤っていたからに他ならない。(背理法) これは、玉江さんの「借り入の申込みを撤回した」という主張が正しいことを意味する。(正確には上記の主張と「信金側が証拠方法にて主張する命題に誤りがある」との選言(「又は」)になる。しかし、当面は「信金の主張に誤りがある」と言うことも結果的には同じと見なしてもよいであろう。) 全知全能ではない人間にとっては、背理法は常に利用できる論理ではないので、この結論には多少の吟味も必要である。しかし、すでに、偽造印鑑の目撃発言、署名の偽造の証拠を見てきた私達にとって、背理法による証明であっても、その結果には充分満足のいく蓋然性を有すると、自信を持って主張出来るだろう。 もう一言、付け加えるならば、信金側の提出する証書類があまりにも、キレイにそろいすぎていることに注目してみるのもよい。三人の印鑑証明書の日付がいずれも三年二月七日と、(証書の日付の前日!)、同一日付になっている。面会日も二月七日。免許証のコピーの日付も二月七日。「話が出来すぎている。」というセリフが、このようなときの決り文句である。その美しい秩序に満ち、おびただしい証拠群を縦横に駆使した、緻密で惚れ惚れするほど見事な論証と、その最終結果として導き出された、子供の工作的(失礼!キュビズムの絵画、シュールレアリスム的コラージュとでも言おうか!)証書貸付元帳とを、比較してみられたい。この不協和音に対する説得力ある説明は、「後の日に、誰かが、人為的に証拠を作り上げた。」しかないだろう。(そして、この視点は重要である。すなわち、背景として存在した本当の理由は何かという、より本質的な問題なのである。背理法によって、結論を導く際に、私達がわざと棄却した「信金の主張に誤りがある」という結論の中にこそ、より深く、悪意に満ちた陰険な真実が隠されているのだ。)
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